【はじめに】
日本は今やFIFAワールドカップの常連となり、欧州のクラブで日本人選手が活躍するのが当たり前だ。
そして、日本全国各地にプロサッカークラブが存在している。
僕は今でこそ地元の京都サンガFCのサポーターであるが、Jリーグ発足以前はサッカーに興味はなかった。
1990年代初頭はNHK-BSのNBA中継が楽しみで、マイケル・ジョーダンに夢中だった。
サッカーは常にダラダラと動いている割に得点が入らず、観るスポーツとしては退屈だった。体育の授業のサッカーは好きだったけれど。
状況を一変させたのは、1993年5月15日のJリーグ開幕と、同年10月28日の「ドーハの悲劇」だ。
その後の日本サッカーが変貌していく過程を、リアルタイムで見ることができたのは幸運だった。
多くの先人たちが少しずつ、時に劇的に変えてきたさまは、「サッカー維新」と呼べるほどダイナミックなものだったと思う。
そこで、日本サッカーを変革した代表的な10人を時系列に沿ってリストにしてみた。
【日本サッカーを作った10人】
1.長沼健(1930-2008 広島市出身)
「日本サッカー近代化の親分」
サッカー協会を改革し、Jリーグ創設への舵取りをした人である。人望も厚かったと言われ、名実ともに親分のような存在だったようだ。
1945年8月6日、広島で被爆し、一命を取り留めている。
1997年、フランス・ワールドカップのアジア予選中、加茂周監督を解任して岡田武史コーチを昇格させた時の記者会見は印象深い。
「加茂には辞めてもらって、岡田に監督をやってもらう」
そんなことを率直に語る姿が、なんだかとてもカッコよかったのだ。
2.デットマール・クラマー(1925-2015 ドイツ)
「日本サッカーの父」
1964年東京オリンピックに向けて、1960年にドイツから招かれたコーチだ。
近代サッカーを日本へ持ち込んだ大功労者である。札幌農学校(北海道大学)のクラーク博士のような存在だろうか?
僕は名前しか知らない人だが、日本サッカー史に必ず登場する人物だ。後にメキシコ五輪での銅メダルへとつながる礎(いしずえ)を築いた。
3.釜本邦茂(1944-2025 京都市)
「苦闘の時代の英雄」
1968年メキシコ五輪の得点王であり、サッカーで世界と戦えることを示した最初の日本人である。
胴体と見紛うほどの太もも、全身から強烈なオーラを放ち、現在のスマートでお洒落な選手たちとは異質な存在感があった。
道を歩くときでも、すれ違う人を相手選手に見立てて、かわす練習をしていたという。
実業団時代の日本リーグのポスターで、全裸の惚れ惚れするような後ろ姿を見せたのが強烈に印象に残っている。
とは言え、彼のプレーを観る機会はほとんどなかった。サッカーはつまらなかったし、そもそもテレビ中継がなかったからだ。
4.セルジオ越後(1945- ブラジル)
「サッカーの伝道師」
辛口解説者のイメージが強い人だが、本当の功績は日本全国を回り、少年サッカー教室を開いて子供たちにサッカーの楽しさを伝えたことである。
まだJリーグもなく、サッカーがマイナースポーツだった時代に、何十年にもわたって普及活動を続けた。
日本代表選手の中にも、子供の頃にセルジオのサッカー教室に参加した人がいる。
日本サッカーは強化だけでなく普及によって発展した。その裾野を広げた功績は極めて大きい。
5.川淵三郎(1936- 大阪府)
「サッカー維新の総大将」
Jリーグを作った立役者であり、間違いなく、日本サッカー史上最大の功労者だと僕は思う。
Jリーグは現在では当たり前に見えるが、当時は大バクチだった。その剛腕によりJリーグを成功させ、日本サッカーを劇的に発展させた。
地域密着クラブという考え方は、後にバスケットボールにも広がった。彼は、混迷を極めていた日本のバスケットボール界を統一して、Bリーグ創設にこぎつけた。
川淵はサッカー人というより改革者である。2023年には文化勲章を受章した。
6.ハンス・オフト(1947- オランダ)
「日本代表の革新者」
Jリーグ開幕前夜、日本代表を変えた初の外国人監督だ。1992年のアジアカップ初優勝は、日本サッカー史の転換点である。
「アイコンタクト」や「トライアングル」といった、今では育成年代でも当たり前の考え方を代表チームへ浸透させた。
ドーハの悲劇によってワールドカップ初出場は逃したが、現在の日本代表につながる組織的サッカーの原型を作ったのはオフトだった。
ここまでの6人は、Jリーグ以前の歴史上の人物とも言える人たちだ。
7.ジーコ(1953- ブラジル)
「勝者の文化の体現者」
Jリーグ創成期に日本にやって来た世界的スターである。
引退後にブラジルのスポーツ大臣を務めていたが、日本リーグ2部の住友金属工業からのオファーを受けた。38歳の時だった。
プロとは何か。勝者とは何か。その姿勢を鹿島アントラーズに植え付けた。
鹿島アントラーズが現在まで一貫して強豪であり続けているのは、ジーコの影響が大きいだろう。
1993年のJリーグ・チャンピオンシップで、相手PKのボールにツバを吐きかけた場面を覚えている。
良し悪しは別として、当時の日本人選手にはなかった、勝利への執念を見せつけたシーンだった。
8.三浦知良(1967- 静岡市)
「Jリーグの象徴」
言わずと知れた「キング・カズ」だ。
カズがいたからサッカーを見始めた人も多い。競技レベルの向上というより、日本中にサッカー人気を広げた功績が大きい。
2011年3月29日、東日本大震災復興支援チャリティーマッチでのゴールとカズダンスは、僕の心に終生刻まれ続けるだろう。思い出すだけでも涙が出る。カズ、44歳のときだった。
9.中田英寿(1977- 山梨県)
「世界へ踏み出した冒険者」
イタリアで活躍し、日本人選手に対する欧州の評価を一変させた。
現在、多くの日本人選手が欧州でプレーしているが、その道を最初に切り開いたのは中田だった。ずっと前の西ドイツに奥寺康彦らがいたが遠い世界の話だった。
中田は、その少し前にメジャーリーグに渡った野茂英雄のような存在である。
僕は一度だけ彼のプレーを観たことがある。1998年、大阪の万博記念競技場でのガンバ大阪 vs ベルマーレ平塚の試合。
フランス・ワールドカップ直前、Jリーグでの最後の試合だったと記憶する。女性ファンの嬌声が耳に残っている。
10.フィリップ・トルシエ(1955- フランス)
「黄金世代を覚醒させた異人」
日本代表の初めてのスター監督だ。ユースとA代表を一体的に育成するのは、今では当たり前の考え方だが、当時は画期的だった。
小野伸二、稲本潤一、高原直泰、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二など、その後の日本を代表する選手を育てた。
その成果が2002年日韓ワールドカップで花開いた。
エゴイスティックでエキセントリックな印象を受ける人だったが、日本サッカー界への劇薬として大きな役割を果たした。
もちろん効き目は十分にあったのである。
【その後】
上述の10人は、日本サッカーの土台を築いた人たちである。
その土台の上で成果を実らせ、世界へ示したのが日本代表監督の岡田武史と森保一だ。
「ドーハの悲劇」に、森保は選手として出場していた。NHKのテレビ中継のゲストだった岡田は泣いていた。
岡田監督は、1997年にジョホールバルで歓喜し、日本を初めてのワールドカップへ導いた。2010年南アフリカ大会ではベスト16を達成した。
森保監督は、2022年カタール大会でドイツとスペインを破り、日本を世界の強豪国に近い位置まで押し上げた。
2026年現在、森保監督はワールドカップ優勝を夢ではなく、目標と明言している。
たった30年ほどの間に起こったことである。
【おわりに】
長沼が種をまき、クラマーが技術を伝えた。釜本は世界と戦えることを示し、セルジオは全国にサッカーを広めた。
川淵がJリーグを作り、オフトが日本代表を変えた。
ジーコが勝者の文化を植え付け、カズが人気を爆発させ、中田が世界への扉を開き、トルシエが次世代を育てた。
日本には、ペレもクライフもマラドーナもいなかった。日本サッカーは、一人の天才ではなく、多くの先人たちの奮闘によって発展してきた。
それは単なるサッカーの歴史ではなく、日本スポーツ史における「維新」と言えるのではないか。
彼らは、日本のスポーツ界において、明治維新の偉人たちにも匹敵する存在だと思う。
僕は、その過程をリアルタイムで見てきたのだ。
日本の女子サッカーにも触れておかねばならない。女子は世界大会には出ていたが、真の強豪になったのは、上記の10人の時代の後のことである。
そして、男子よりもはるかに先んじて、2011年のワールドカップで優勝するという快挙を成し遂げた。
前述のカズのゴールとともに、東日本大震災の年の、僕が生涯忘れることのできない偉業だった。
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