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プロフィール

昭和20年代の富良野〜その1 富良野へ

以前のブログで、母方の祖父一家が、かつて富良野に住んでいたことがあると記した。

▶️僕と富良野との、不思議な縁

 

母は4人兄弟の2番目で、兄が1人、弟が2人いる。唯一存命の叔父(三男)から当時の様子を聞くことができたので、数回に分けて書いてみたい。

 

祖父は、道南の江差町の高等小学校を卒業後、函館に出て奉公(就職)した。後に結核に罹り退職。

紆余曲折を経て桧山税務署の臨時雇いとなり、登用試験に合格して、今で言う大蔵事務官に採用された苦労人である。

 

祖父は税務署勤めの国家公務員であったため、北海道内の税務署を2〜3年おきに転勤する生活を送っていた。戦後は根室から札幌、小樽へと異動している。

富良野税務署へ税務署長として赴任したのは、昭和26年12月のことのようだ。

 

12月某日、富良野駅に到着。

初日は駅前の旅館に一泊したらしいが、どこの旅館かは分からない。

なにしろ真冬の富良野である。

夜、旅館の風呂場から部屋へ戻るほんのわずかな間に、濡れた手拭いが凍りついて立つほどの寒さだったという。

今のタオルではなく、さらし木綿に旅館名が刷り込まれた、あの薄い手拭いだからなおさらだろう。

 

倉本聰によれば、自身が富良野に移住した昭和50年代(1970年代)と比べても、現在はだいぶ温暖化しているとのことだ。平均気温は50年前より1℃上昇しているらしい。

なお、倉本が指摘するように「温暖化」という言葉は生ぬるく、事態の本質から目をそらす表現だ。この点については、いずれ別稿で書いてみたい。

 

さて、この時点で伯父(長男)は大学生、母は小樽の高校に通っていたため、この二人は富良野には同行していない。

叔父(次男)は中学1年生で、富良野東中学校に転校。

叔父(三男)は小学4年生で、富良野小学校に転校した。例の北海道中心標が立っている、「北海道のへそ」の小学校である。

肝心の母は、昭和28年の春に小樽の高校を卒業後、富良野に移り住み、洋裁学校に通っていた。母が富良野にいた期間は1年ほどだったようだ。

 

富良野での住まいは官舎だった。

場所は当時としては街外れで、富良野高校(旧校舎)から富良野駅の方へ200mほど行ったあたりだったらしい。

 

次回は、当時の富良野での暮らしについて書いてみたい。

続く

▶️昭和20年代の富良野〜その2 暮らし

 

 

【祖父一家の家族構成】

祖父は上述の通り。

祖母は4人の子持ちで、専業主婦として一家の暮らしを支えていたと思われる。

伯父(長男)は江差町生まれ。札幌西高等学校から大学へ進み、国家公務員となった。

母は江差町生まれ。小樽潮陵高等学校を卒業後、富良野から札幌に出て企業に就職している。なお、戸籍上は次女なのだが、長女は生まれてすぐに他界している。

叔父(次男)は函館市生まれ。札幌西高から大学へ進学し、地方公務員、のちに会社員。

叔父(三男)は札幌市生まれ。札幌南高等学校から大学へ進学し、会社員を経て国家公務員となった。

 

息子が3人とも高学歴なのは、祖父自身のコンプレックスに起因している。

中学校を出た若い者が、小学校卒の自分よりも早く出世していくのを目の当たりにし、自分の子どもには、より高い教育の機会を与えたいと考えていたのだ。

祖父は実直を絵に描いたような人で、僕にはたいへん優しかった。しかし、そんな教育熱心な祖父の影響力は、僕にまで及ばなかったようだ。

もし「一流大学」を出て公務員や銀行員にでもなっていたら、『北の国から』や『男はつらいよ』の世界観を理解できなかったかもしれない。

コメント

“昭和20年代の富良野〜その1 富良野へ” への6件のフィードバック

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